レポート

飯野喜四郎まとめ

2017/06/07

蓮田の偉人

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堂山公園には飯野喜四郎さん(以下、敬称略)という人の銅像がある。そもそも堂山公園は飯野喜四郎の邸宅跡地なのだそう。

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飯野喜四郎は埼玉県の偉人の一人と言われている。蓮田にそんな人物がいたことを知らない人も多いだろう。僕もほとんど知らなかった。
伝記があるというので図書館で借りてみた。読んでみるとたしかに偉人という感じだった。

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飯野喜四郎はこんな人

政治家

飯野喜四郎は明治生まれ。
堂山公園のあたり、つまり飯野の生家だった一帯は昔「綾瀬村」と呼ばれていた。飯野家は代々村長のような役割を担う家系だったらしい。
当時は「自由民権運動」が活発で、この運動を先導する自由党の支部が日本各地で結成されていた。飯野も埼玉支部の設立に参加し、これを契機に政治の道へ進んでいく。

実業家

明治に入り東北本線が開通する。これに伴って飯野家は運送業を始めた。飯野はこの鉄道網を利用して関東と東北を結ぶ物流経路を開拓していく。事業の発展にともない商業銀行の誘致や私鉄の設立など、様々な事業を手掛けて蓮田市の発展に大きくかかわっていった。

人柄

男前
伝記の表紙に議員時代の写真が載っている。すらっとした細身の体形でカッコいい。壮年期でも180センチくらいはあったらしい。綺麗な白髪が印象的で「白頭翁」と呼ぶ人もいたようだ。

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超まじめ
個人的なエピソードはあまり書かれていないが、文中の端々から本当にまじめな人だったんだなという印象をうける。正直「頑固で怖そうなおじいちゃんだな」と思った。孫に泣かれるタイプ。
埼玉会館の竣工時、大ホールの屋上に飾ってあったヴィーナス像をひき下ろさせたというのエピソードがあった。「肉感的で社会風教上面白からず」と注意したらしい。周りの人は相当あたふたしただろう。

筆まめ
ものすごく筆まめな人だったようだ。そもそもこの伝記自体が「県政重要日記」という飯野のメモを基にしたものだという。その量は30年分近くあったのだとか。ちなみに伝記の半分はこの県政重要日記の原文が掲載されている。

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飯野喜四郎の功績

政治活動

飯野が建議した主な議案は以下の通り。

  • 粕壁中学校(現春日部高校)の設立
  • 県内主要県道の整備
  • 氷川神社拡張工事事業
  • 荒川、綾瀬川などの主要河川の改修

建議以外でも埼玉大学の招致をはかったり白岡駅の設立に協力したりもしている。飯野が行った施策は主に交通、整地、河川改修など生活や産業の基盤に関わるものが多かった。氷川神社(大宮公園)の拡張工事事業というのも今から考えると先見的な施策だ。ちなみに設計を担当したのは久喜出身であり明治神宮や日比谷公園の設計にも携わった林学博士の本多静六。本多博士は埼玉大学設立の際にも協力してくれたのだという。

しかし数ある功績の中でも突出しているが「新方領耕地整理問題」だ。「新方領」というのは春日部から越谷にかけて、元荒川と古利根川に挟まれた辺りのこと。

当時の埼玉は深刻な水害が多発する地域で、基幹産業である農業に多大な悪影響を及ぼしていた。
そこで抜本的な整理計画が持ち上がった。その規模は当時としては国内最大。「はたして成功するのか」と県外からも注目を集めた事業だったのだが、案の定、先祖伝来の土地に変更を加えることを嫌った住民をはじめ、排水路にかかる上流と下流の住民対立などの理由により大変荒れたという。さらには地場の対立政党の政争課題に利用され、ついには暴動寸前の事態に陥ってしまう。

飯野はこの問題の調停を任され、約3年をかけて合意に取り付ける。かなりの労を要したようで、詳細や飯野の日記を読むと苦労がにじみ出ていた。

事業活動

  • 蓮田の運送業をはじめ、大宮でも倉庫業などを営む
  • 特産物の甘藷(サツマイモ)の販路開拓
  • 武州銀行の設立発起人
  • 蓮田への商業銀行の誘致

冒頭の通り、飯野は鉄道を利用した運送業を始める。同時に当時蓮田の特産品だった甘藷の販売開拓も行っており、蓮田からは甘藷を、東北地方からは石炭や石材などの輸送を行った。

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事業は軌道にのって次第に大きくなり、それにともなって蓮田停車場は物資の一大集散駅となる。主要駅に匹敵するよう出入荷量の時もあったのだとか。この影響で山林ばかりだった停車場周辺が瞬く間に市街地に変わっていったという。

その後飯野は賛同者を募って「武州鉄道」という私鉄の設立する。経路は川口から岩槻を経由して蓮田まで。残念ながら利用者が少なくて廃線になってしまったが、これが今あったら迂回したり地下鉄に乗り換えるのに便利だっただろうなと思う。

伝記を読んでみて

ノブレス・オブリージュ

常に公の場に立ち、プライベートがほとんどなかった人なんじゃないかと思う。本人もさることながら周りで支えている人はさぞ大変だっただろう。文末の方に長女にあたる方の寄稿文が添えてあり、以下のように振り返っていた。

「家のことはすべて母にまかせ外のことのみ思い、親ゆずりの財産も大分失いましたようでございました。従って母は6人の子供を抱え大変苦労したのではないかと思います。」

何故そこまで他の人、他の地域に奉仕することができたのだろう。似たような印象でいえばヨーロッパの格言である「ノブレス・オブリージュ」だ。社会的に地位が高い人や資産をたくさん持っている人はそれにともなう責任があるという意味だが、代々村の指導的立場にある家系だった飯野もそのような意識をもっていたのかもしれない。フランスの民権思想の流れをくむ自由民権運動に参加していたことも少なからず作用していただろう。

蓮田は物流で栄えた町

今回、伝記を読んで蓮田は物流の町ということがわかった。いつも「蓮田ってどんな町?」と聞かれたときにしっくりくるような言葉が浮かばなかった。ベッドタウンというにはざっくり過ぎるし、「梨」や「縄文遺跡」というのは町の一側面にとどまる。「鉄道貨物輸送で興った町」というのが今の蓮田に続く一番的を得た答え方なんじゃないかと思う。蓮田駅に快速が止まる理由もこれらの経緯が少なからず関係しているはずだ。

蓮田駅の開業にも飯野家が関わっている

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実は蓮田に東北本線が開通した過去にも飯野家が大きく関わっている。
飯野の父である飯野吉之亟(きちのじょう)が里正(村長のような役職)を務めていた頃、綾瀬村付近に東北本線開通の話がもち上がった。しかし当初、路線については「岩槻~幸手ルート」という別の候補もあった。
鉄道が通れば地域の発展の契機になると考えた人たちが吉之亟を代表とし、久喜の人たちと一緒になって路線の招致に努めたそうだ。さらに蓮田停車場の誘致にいたっては自分たちの土地を寄贈してまで設置に働きかけたという。

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一方の岩槻幸手ルートは住民の反対が強かったらしい。鉄道が通ることによって商圏が他の土地に奪われてしまうという意見が多かったのではないかといわれている。蓮田には住む人が比較的少なかったため、岩槻幸手ルートに比べれば反対意見が多くはなかったのかもしれない。

結局、吉之亟らの積極的な誘致活動もあり、路線は蓮田を通るルートに決まった。なお吉之亟はこれに伴って国から鉄道の貨物取扱業の許可を得て「蓮田運送店」という運送会社を開業。そして息子の喜四郎へと続く物流開拓を行うようになっていった。

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